横浜港開港記念日とは?漁村から国際貿易港になるまでの165年

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# 6月2日は横浜港の誕生日――「ただの漁村」が日本の玄関口になるまでの165年

**今日6月2日は「横浜港開港記念日」です。**

1859年のこの日(旧暦)、横浜港が正式に開港しました。
現在ではコンテナ取扱個数が年間308万個(2024年)にのぼる日本有数の国際貿易港ですが、開港前の横浜はどんな場所だったか、ご存知ですか?

じつは当時、「横浜」は人口わずか数百人の小さな漁村でした。
そこが今の横浜になるまでには、黒船・幕府の思惑・外国との駆け引きという、ドラマチックな歴史があります。

## そもそも「開港」とは? 鎖国の日本に何が起きたのか

江戸時代の日本は、約200年にわたって「鎖国」を続けていました。
貿易を許可していたのは長崎出島のオランダ・中国に限定され、他国の船は原則として日本に入れない状態です。

その均衡を一気に崩したのが、1853年のペリー来航でした。

### 1853年:黒船がやってきた

アメリカの東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが、軍艦を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に現れます。

当時の日本人は蒸気で動く大型軍艦を見たことがなく、江戸の街は大騒ぎになったと記録されています。
ペリーはアメリカ大統領の親書を持参し、幕府に開国を要求。返答を迫られた幕府は「1年後に回答する」と先延ばしにしました。

1854年、横浜に集まった外国人たち(幕末期の浮世絵風図版)
1854年、横浜に来航した外国人の様子を描いた図版
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

### 1854年:日米和親条約の締結

翌1854年、ペリーは約束どおり再来航。今度は横浜に上陸し、幕府と4回にわたる会談を行います。

3月31日(旧暦3月3日)、ついに**日米和親条約(神奈川条約)**が締結されました。
開港地として決まったのは**下田(静岡)と函館(北海道)**の2港。横浜はまだこの時点では関係ありません。

この条約の内容は、食料・燃料などの補給を認めるものの、自由な貿易(通商)まではまだ許可しない、という限定的なものでした。

## なぜ「横浜」が選ばれたのか? 幕府の巧みな(?)思惑

下田に赴任したアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは、幕府に対して本格的な貿易条約を粘り強く求め続けます。

1858年、ついに**日米修好通商条約**が締結。今度は本格的な貿易が始まることになり、開港地も5港に拡大されます。

関東での開港地として条約に記載されたのは「**神奈川**」でした。
ところが、実際に開港されたのは「横浜村」という、対岸の小さな漁村だったのです。

### 幕府の”すり替え”作戦

なぜ神奈川ではなく横浜になったのか? 理由は幕府の政治的な計算にあります。

神奈川湊は東海道沿いの宿場町で、人の往来が非常に多い場所でした。
もしそこに外国人が大勢来れば、「攘夷派(外国人を追い払うべきという強硬論者)」との衝突が避けられません。

実際にその危険性は後に現実となります。1862年、神奈川宿の東隣・生麦村で薩摩藩がイギリス人を殺傷した「**生麦事件**」が起きるほどでした。

そこで幕府は策を講じます。

> 「横浜村も神奈川の一部(神奈川在横浜)だから、条約の神奈川開港を守っている」

という強引な理屈を押し通し、当時は漁村に過ぎなかった横浜村を開港場に指定したのです。
諸外国からも反発がありましたが、幕府は押し切りました。

### 横浜が選ばれた、もうひとつの理由

幕府の”抜け道”だけで横浜が発展できたわけではありません。
地理的な条件も大きかったのです。

– **水深が十分あり、大型船が停泊できた**
– **江戸(東京)に近い**という立地
– **新田地帯で開発しやすく**、市街地を整備しやすかった

「江戸にいちばん近い港で、貿易が始まれば必ず重要になる」という見立てをハリス側も認め、横浜への変更を受け入れたと考えられています。

## 1859年6月2日:横浜港、開港

こうして1859年7月1日(旧暦6月2日)、横浜港が正式に開港しました。

開港と同時に、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国との貿易がスタート。
外国商人が次々と集まり、かつての漁村は急速に変貌を遂げていきます。

開港からわずか数年で、横浜には異国情緒あふれる商館や居留地が建ち並び、生糸・茶の輸出を中心とした貿易が活発化。日本の近代化を資金面から支える重要な拠点になっていきました。

1870年頃の横浜フランス公使館付近の様子
1870年頃の横浜居留地・フランス公使館付近の様子。外国人商館が立ち並ぶようになった。
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

## 開港後の横浜:赤レンガ倉庫はこうして生まれた

開港から約40年後、横浜港はさらに大きな変貌を遂げます。

### 近代港湾への大工事(明治期)

開港当初の横浜港には、大型船が直接着岸できる岸壁がありませんでした。
沖に停泊した船から小舟で荷物を運ぶ方式だったのです。

そこで明治政府は大規模な築港工事を決定。

– **1896年(明治29年)**:鉄さん橋(現・大さん橋の前身)が完成
– **1899年(明治32年)**:東洋初の接岸式ふ頭として「新港ふ頭」の建設開始

新港ふ頭は、上屋・倉庫・クレーン・鉄道をすべて備えた、日本初の本格的な近代港湾施設でした。

### 赤レンガ倉庫の誕生

新港ふ頭の建設にあわせて、輸入品を一時保管する「保税倉庫」として建設されたのが、現在の**赤レンガ倉庫**です(当時の正式名称は「横浜税関新港埠頭倉庫」)。

設計を担当したのは大蔵省臨時建築部の**妻木頼黄(つまきよりなか)**。
「明治建築界の三巨頭」の一人とされる人物で、現在の神奈川県立歴史博物館(旧・横浜正金銀行本店)も手がけています。

– **2号倉庫**:1907年(明治40年)着工 → 1911年(明治44年)竣工
– **1号倉庫**:1913年(大正2年)竣工

日本初の荷役用エレベーター、防火扉、消火水栓を備えた最新鋭の施設でした。
1923年の関東大震災でも倒壊せず、1945年の横浜空襲でも焼け残るという、堅牢な構造を証明しています。

### 倉庫から観光地へ

戦後はアメリカ軍の補給基地として使用され、1956年から再び倉庫として稼働。
しかし1970年代以降、港のコンテナ化が進むにつれて新港ふ頭の物流機能は他の埠頭に移り、赤レンガ倉庫も役目を終えます。

取り壊しの声も上がりましたが、横浜市が1992年に国から取得。
約9年間の保存・改修工事を経て、**2002年4月、文化・商業施設として生まれ変わりました**。
開業初年度に569万人が訪れる人気スポットになっています。

## 現在の横浜港:今もニッポン経済を支えている

開港から165年。横浜港は現在、どんな港として機能しているのでしょうか。

### 数字で見る現在の横浜港

| 指標 | 数値(2024年) |
|——|—————|
| コンテナ取扱個数 | **308万個**(直近10年で最多) |
| 自動車関連貨物量 | **2,227万トン**(2023年) |
| 外航コンテナ船入港隻数 | 4,679隻(2023年) |
| クルーズ船寄港回数 | 国内第1位(2023年) |

**輸出の主役は自動車**です。完成自動車の輸出量は国内トップクラスを長年維持しており、日本の自動車産業を支える玄関口となっています。

輸入では液化天然ガス(LNG)や原油などのエネルギー資源が多く、私たちの電気・ガスを支える貨物も横浜港を通っています。

### 「国際コンテナ戦略港湾」に指定

横浜港は東京港・川崎港と合わせた「京浜港」として、国土交通省から**国際コンテナ戦略港湾**に指定されています。
国際基幹航路を維持・拡大し、日本経済の競争力を高める役割を担う港として、継続的に整備が進んでいます。

## まとめ:「漁村」から「国際都市」へ

| 年 | 出来事 |
|—|——–|
| 1853年 | ペリー来航(浦賀) |
| 1854年 | 日米和親条約締結。下田・函館が開港 |
| 1858年 | 日米修好通商条約。本格的な貿易開始へ |
| **1859年6月2日** | **横浜港、正式開港** |
| 1896年 | 大さん橋の前身・鉄さん橋が完成 |
| 1911〜1913年 | 赤レンガ倉庫(1号・2号倉庫)竣工 |
| 1923年 | 関東大震災。赤レンガ倉庫は倒壊を免れる |
| 2002年 | 赤レンガ倉庫が文化・商業施設として再オープン |
| 2024年 | コンテナ取扱個数308万個、直近10年で最多を記録 |

ペリーの黒船から165年。「漁村を神奈川だと言い張る」という幕府の強引な策から始まった横浜港は、今や日本経済を支える国際貿易の要衝になりました。

そしてかつて貿易の最前線で活躍した赤レンガ倉庫が、今は市民の憩いの場として残っているのも、なかなか面白い歴史のめぐり合わせだと思いませんか。

### 参考・画像出典

– 横浜市公式サイト「横浜の歴史」
– 横浜赤レンガ倉庫公式サイト「赤レンガ倉庫の歴史」
– 横浜市港湾局「令和6年横浜港統計速報」
– 国土交通省関東地方整備局 京浜港湾事務所
– 画像①:*Foreigners in Yokohama in 1854*(作者不詳)/Wikimedia Commons、パブリックドメイン
– 画像②:*French Legation Yokohama circa 1870*(作者不詳)/Wikimedia Commons、パブリックドメイン

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